GOGOマコトです(*’▽’)
今回は僕の生い立ちを記事にしてみました。
変なやつではありますが悪いやつではございませんので是非仲良くしてください♪
京都府舞鶴市で産まれて海と山と優しい人しかいない大自然で育ちました。
父、母、妹の4人家族でしたが
9歳に母をガンで亡くしました。
この出来事が衝撃的すぎてそれ以前の記憶がほとんどありません。
それからは働き者で人として本当に立派な父に育ててもらいました。
ホテルマンの仕事をしていた父はよく会社に泊まる勤務がありましたが、一緒にい泊まらせてもらったり、仕事をしているのに弁当を作ってもらったり愛を沢山もらいながら育てられました。
『挨拶』以外で怒られた事はありません。
心はまっすぐ(自分では思ってました。)でしたがだいぶヤンチャに育ち迷惑をかけましたし警察のお世話になる事もありましたが一回も怒られた事がないです。
中学3年のとき警察に迎えに来てもらった帰りの車でも『髪の毛染めたんか?』とか、『コンビニよるか?』みたいな感じで怒られなかったです。
僕は、もう絶対にこんな事したらダメだなと心に誓いました。
数日後学校の先生が家に来てお父さんが謝っていたんですが、その時お父さんは泣いていました。
本当にもう泣かしたらあかんと心に誓いました。
そこから僕は世でいう悪い事はしなくなりました。
スケボー時代
13歳からスケボーにハマり15歳からスケボーのメッカ(B7というスケボーパーク)三重県で一人暮らしをしながらスケボーを学びました。
15歳の同い年のプロが2人いてレベルの違いを感じてスケボーがおもしろくなくなり夢破れて実家に帰りました。
行くときも、帰るときもお父さんが迎えにきてくれました。
ただ、特にお父さんに何か言われませんでした。あたたかく包んでくれた感覚です。
夢がなくなった僕は本当に人生退屈でした。
そこでなんかしたいと思って探したときスケボーと関係が深いDJに興味を持ちDJの世界にハマりました。
DJ時代
教えてくれる人がいないので当時流行っていた『自分のHP』みたいなのでDJをやっている人を探し連絡をとり直接お願いして師匠を探しました。
結果15歳〜22歳までDJをやることになり大阪で活動することが増えたので大阪に移住しました。
今でもDJで知り合ったメンバーはかけがえのない仲間でいまだに集まってバカな事を話しています。
人生の転機は20歳の頃訪れました。
『DJをやっていたら俺は一生お金持ちにはなれない』と、気づいたのです。
そこからは人生真っ暗でした。
なんでそれに気づかんかったんやろうと自分をせめましたが解決策は『0』でした。
そんな時お父さんに相談しました。
『何か俺にメッセージを色紙に書いて送ってくれへん?』
お父さんはもちろん『わかったよ〜』と答えてくれて20歳の誕生日プレゼントに色紙と手紙と1万円が送られてきて『これで美味しいものでも食べて下さい』と書かれていました。
そして色紙にはこう書かれていました。
『一番大事な事は、決めたのは、允ということ』
泣いたのは言うまでもないですね。
こんな俺をいまだに信じてくれるんやなと見方がいてくれるんやなと力強かったです。
そして悩みながら日々を過ごしていましたが色々な縁があり今の職場のオーナーに出会いました。
仕事のめり込み時代(現在進行形)
ちなみに電話でかけた求人先がいっぱいで紹介してあげる!と、紹介されたのがオーナーでした。
初めて話したときにこんなかっこいい人がいるんだなと憧れ、気づけば目指すようになりオーナーの元で働きはじめました。
それが22歳の時でした。
オーナーは当時30歳でしたが間違いなくお金持ちの思考をもっており人として男として魅力的で仕事を通じて沢山の事を勉強させてもらいました。
僕がお父さんの話をよくしていたので『沖縄の慰安旅行に招待しよう!』と言って下さりそこから5年ほど沖縄の慰安旅行に従業員+僕のお父さんで連れていってもらいました。
お父さんは『これが1年で1番おもしろい、生き甲斐や』と言っていました。
60歳で定年退職した父は当時63歳〜67歳という感じでした。
35歳以上年下のみんなに〇〇さん乾杯‼︎と、オリオンビールを一緒に飲んでいました。
そんな偉大な父も2017年1月15日永遠の眠りにつきました。
その日はめっちゃ寒く急性の心筋梗塞でした。
お父さんは舞鶴で一人暮らしで誰も気づけずこの世を去りました。
数日して妹が僕に『お父さんメール返ってこんなぁ』と言ってきた時に『あれ?そういえば俺も返ってきてないな』
あ、、、。
亡くなってしまったなと確信しました。
お父さんとはよくメールをしていたんですがいつ送ってもすぐ返ってきます。なのでそう確信しました。
親戚の方に様子を見に行ってほしいとお願いしたところキッチンで倒れている父を発見したようです。
そこからすぐ帰宅して葬式をするんですが『お父さんの最後は俺がしっかりする』とお金をいっぱいもって帰ったんですが
全てのお金はもう葬儀屋に支払われていました。
いやぁ本当に偉大な父です。
『死んだ後の事を考えれなければ一流ではない』とオーナーの行動を見て学んだんですが父はやはり流石でした。
長くなりましたがそんな生い立ちです。
因みに僕のキャッチフレーズは
『お父さんの自慢の息子が僕です』というくらいお父さんをリスペクトしています。(笑)
お父さんを知らない人からしたら
『は??』な内容ですが(笑)
仕事
22歳に入社した時5人だった従業員も2017年10月現在85人になりました。
がむしゃらに寝ずに働いた結果、業績No.1を6年間継続し管理職となり今では会社の3番手のポジションにつかせていただいています。
とにかく従業員や関わって下さる人、お客様を豊かに幸せにするのが僕の使命と思い本気で仕事をしてきました。
僕から仕事をひくとほぼなにもないくらい22歳からの10年間仕事に生きてしました。
株式投資
生い立ちでうまくいれれなかったのですが、DJをしている時にレコードや衣装を買いすぎて100万以上の借金を消費者金融につくってしまっていました。
22歳の頃それを滞納していたんですが気づいたら父が払ってくれていました。
その時も父は僕に怒る事はしなかったです。
そこから今の仕事で必死に働きすぐ返済して逆に仕送りを沢山するようになりました。
その経験からお金がない事への恐怖と、お金があれば大切なモノを守る事ができる可能性が増える事を学びました。
そこから僕は倹約家となり貯金をやたらするようになりました。
そしてなぜか昔から興味があった株式投資の世界に足を踏み入れました。
それが24歳くらいです。
そこから1年半株式投資スクールに通い勉強しましたがテクニカル系のスクールで売買を頻繁に行うトレードを教えてくれていたので株式投資にしんどさを感じていました。
これは俺が目指している株式投資ではない!これをしていても俺は一生なりたい自分になれない!!
と、スクールを辞め独学で書籍、ブログから株式投資を勉強するようになりました。
最初は人の推奨している銘柄をパクりながら売買し、何故それを推奨しているのかを学び、どうやって銘柄を探しているのかも学びました。
そして気づけば今の中長期の株式投資スタイルを見つけ出し『これならなりたい自分になれる‼︎』と確信し中長期の株式投資を継続しています。
現在は株式スクール開校へ向けて準備中!!
自分がスクールに通おうとしていた当時からオーナーに相談したり運用成績を報告したりしていたので『そんなに人生豊かになっていけるのならうちのスタッフや仲間に株を教えてやってくれ』という話をいただきました。
最初はまだ早いと思い見送っていましたが金融資産があるラインを越えたことから『マインド、手法を伝えてもよいタイミングだ』と確信し今回株式投資スクールを開校する運びとなりました。
株式スクールはもちろんですが沢山の関わる人が豊かに幸せになっていくことが僕の生き甲斐であり使命と捉えていますので命の限り全力でその使命を全うしようと考えています。
こんな僕ですがこれからもどうぞよろしくお願い致します。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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